第五章

 

どっちが障がい者?

(Handicapped Students) 

 

 

 私は「障がい者」という言い方は、自分が健常者だと思い込んでいる人達が、自分たちと違う人のことを指したものだと思っています。いわゆる障がい者と呼ばれる人たちが、必ずしも健常者が健常だとは思っていないということです。

 

 障がい者 vs 健常者 というテーマで、考えさせられた例を次にご紹介しましょう。

 

 

全盲のピアニスト

 

 1 全盲のピアニストによるリサイタル

 

 私は過去に、全盲のピアニストによるソロ・リサイタルをアメリカで2度聴きました。どちらも、驚嘆のあまり、脱帽と言うしかありませんでした。

 

 目が見えないのにどうしてこんな事が出来るのだろうとか、どうやって練習したのだろうと考える以上に演奏のレベルが高かったものですから、本当に驚きました。

 

 2 ダラスの教会で

 

 ダラス郊外にリチャードソン・プレスビテリアン・チャーチという教会があります。 そこには女性のピアニストがおりますが、彼女は生まれつきの全盲です。彼女は賛美歌を全部覚えてしまっているどころか、楽団の演奏に即興で伴奏をつけたり、ピアノの独奏までやってしまうのです。

 

 運良くその方とお話をする機会がありましたが、そこで「ハッ」と思ったことがあったのです。それは彼女がこう言ったときでした。

 

 「皆は、目が見えないのにどうしてそんなことができるの?と聞くんだけど、私は逆に、どうして皆にこんな事が出来ないのか不思議なの。フフフ。」

 

 その言葉を聞いて私は、「あれ、いったいどっちが障がい者?」と疑問に思いました。彼女のその言葉は私にとっては「障がい者は私じゃなくて、あんたたちよ。」と受け取られたからです。

 

 3 独創的なレッスンへ

 

 市販されているテキストが全く通用しないケースが存在したのだという発見と、そのような場合どうピアノを教えたらいいのだろうかという疑問が頭の中に駆けめぐりました。

 

 この事をきっかけに、私は障がい者教育について深く考えさせられることになりました。それは、その後の私のピアノ教師生活を変えるだけではなく、とてつもなく大きなエネルギーをもたらすものとなりました。

 

 考えてみれば、ピアノは別に手で弾かなければならないという法律があるわけではありません。足で弾いても良いのです。鼻や舌でピアノを弾いても良いではありませんか。

 

 

手の障がい

 

 ダラス郊外で指の関節に障がいを持った小学4年生の女の子にピアノを教えたことがあります。

 

 その生徒はド、ミ、ソ、の和音を左手の5,3,1、の指では弾くことができませんでした。半べそになりながらがんばっているのですが、どうしても5,3,1では弾けません。

 

 そこで私はいろいろ実験させた結果、5,2,1なら弾けるということを発見しましたので躊躇無く、そのように弾かせることにしました。

 

 彼女は、それまで弾けなかった和音が弾けるようになったものですから、目を輝かせてよろこんでいました。

 

 これをきっかけに、二人で一緒に、彼女にだけに通用する、新しいピアノ演奏法をどんどん開発していったのです。

 

 彼女に通用するテキストは売っていませんでしたが、そんなことより、世界で一つしかない彼女だけのピアノの弾き方を見いだすことに私は大きな喜びを感じたのでした。

 

 考えてみれば、ショパンのエチュードや、リストのエチュードなど、とてもむずかしい曲を演奏会のレベルで弾いた事のある人ならおわかりと思いますが、このレベルになりますと、先生からあれこれ言われながらも、自分自身の独特のテクニックを身につけていないと手に負えないものなのです。先生と生徒の弾き方が違って当たり前なレベルなわけです。どうしてかといいますと、先生と生徒は、手の格好、指の長さやその力等、肉体的にそもそも違うからです。

 

 初級の場合、左手のド、ミ、ソ、の和音を、5,3,1で弾くことは普通大切ですが、それが障がいなどの影響で、どうしても出来ない場合、どんな指を使っても構わないと思います。

 

 

バノウェッツ流万歳

 

 これに関連してですが、バノウェッツ先生は、信じられないほどのテクニシャンで、彼からは、随分いろいろなピアノのテクニックを教わりました。特に彼のペダルのテクニックはすばらしく、まるで魔法使いのようでした。

 

 練習していた曲のある部分が弾けなくて悩んでいたときに、先生は「こういうふうにやってごらん。だめなら、こういうふうにやってごらん。それでだめなら、こういうやり方もある。」という具合に、曲の同じ部分を弾くのでも、いろいろな弾き方を紹介してくださいました。

 

 どの弾き方を選ぶかは私の宿題となり、私が最終的な決断をしたわけですが、その先生の柔軟さが、後の私の障がい者教育に随分、役に立ったと思っています。

 

 

ディスレクシアのケース

 

 1 ディスレクシアとは

 

 ディスレクシア(dyslexia) は、難読症と呼ばれるそうですが、私は何人か、ディスレクシアの生徒にピアノを教えました。

 

 9を6と読んだり、私が「本の23ページを開いて下さい。」と言ったら生徒は32ページを開いたり、あるいは英語のEの筆記体を、数字の3と読んだりといった感じで、なんとなく反対になってしまうのです。

 

 ディスレクシアには軽度から重度までいろいろな段階があるそうです。アメリカではこういう子ども達は、学習障がいのカテゴリーに入っていて、特別なトレーニングをさせられます。

 

 学習障がいといってもこの場合、知的障がい者というわけではなく、むしろ知能指数は普通より高いのです。ダ・ヴィンチやアインシュタインもディスレクシアでした。

 

 しかし、なにせ物が反対に見えてしまうものですから、ピアノのレッスンに於いても生徒はずいぶん手こずってしまいます。

 

 2 ダラスの生徒

 

 ダラスのアメリカ人家庭で二人の女の子にピアノを教えていた時の話です。

 

 姉は高校生で重度のディスレクシアを持っていました。妹は普通の中学生でした。姉のピアノのレッスンは彼女の学習障がいのトレーニングの一部でしたので、障がい者教育の経験を買われて私がそこで雇われたのです。

 

 障がい者教育の経験があるといっても、このような重度の生徒に教えたことはありませんでしたので、初めのうちは手探りの状態でした。

 

 普通、楽譜上で音符が上に行ったり下に行ったりする時、鍵盤の上では手が右に行ったり左に行ったりします。この姉の問題は、音符の上下関係と、鍵盤の左右関係がこんがらがってしまうというものでした。

 

 私は、生徒の状態を冷静に観察した上で、「こちらを生徒に合わせるしか方法は無い」と判断しました。ではどうしたかといいますと、簡単に言ってしまえば、ゆっくり、ゆっくり、教えていきました。なにせ同じ事をやらせるのでも、その生徒は普通の三倍くらいの時間がかかりましたので。

 

 彼女の調子の悪いときは「君もアインシュタインみたいに天才かも知れない。」と下手な励まし方をしたりもしました。しかし基本的には、レッスンの中で一緒に学習するような形を取り、前の週より少しでも上達したら、じゃんじゃん褒めるということを繰り返しました。

 

 この生徒は絵を描くのが得意で、テキサス州知事から表彰されたこともあります。学校の成績はむしろ良い方なのだそうです。しかし、特定の科目はディスレクシアの影響で、苦労していると聞きました。

 

 その家庭でのレッスンを始めたのは姉も妹も同じ時期でした。年齢的な理由から、初めは妹のレベルの方が低かったのですが、どうしても妹が早く上達してしまいます。

 

 そしてある時、妹のレベルが姉のレベルを追い越してしまいました。我慢強いお姉ちゃんは何も言いませんでしたが、その不快感を私は悟っていました。

 

 そこで私は、妹と共有していた彼女のテキストをいきなり止めさせ、それを全部、大人用のテキストに切り替えたのです。無口だった姉は「あっそう」という感じだったのですが、どんなにうれしかったのか、あとでその親が姉の喜びようをメールで伝えてきました。

 この両親からは後で「ピアノのレッスンを始めてから、姉のディスレクシアの症状が良くなった。」といって随分喜ばれました。

 

 私が行ったのは特別な事ではなく、上達の具合、良い癖、悪い癖、その他、全部をひっくるめて受け容れ、それに合わせたカリキュラムを作り、それを実行しただけなのです。これは、生徒全員にやっていることと基本的には同じです。ですからこの生徒のレッスンで負担に感じたことは一度もありませんでした。

 

 

まとめ

 

 1 生徒のためのプログラム

 

 ピアノ教師はそもそも、生徒各々に合わせて、各自違ったプログラムと計画を作り、それぞれの進み具合に合わせてレッスンを行うべき人だと思います。

 

 生徒がたとえ健常者であれ障がい者であれ、多少の教え方の違いはあったとしても、教師の基本姿勢は同じでなければならないと私は考えています。

 

 教師はいかなる生徒も受け入れる、柔軟で寛容なものでありたいものです。

 

 もし、楽譜店に売っているピアノの教本を使わせて、問題なく、挫折もなく、すいすいレッスンが進むような生徒がいるとすれば、この生徒は、数少ない、世にも珍しい健常者であると私は思います。

 

 2 テキストをうまく使う

 

 私が愛用させて頂いている教本の中に、アメリカの初級用の教本、バスティンがあります。その中でジェームズ・バスティンは、「自分の書いたテキストの全部をこなすことはレッスンの目的ではない。教師の裁量によって、どんどん使い方を工夫してほしい。」と書いています。 

 

 生徒は一人一人学習の仕方が違いますので、バスティンのこの記述は的を射たものであると思います。

 

 あるピアノ教師がもし、全部の生徒に同じ教え方で、同じ本を使い、同じような期待を持っていたそすれば、この教師は、世にも珍しい、少数の健常者にしかピアノを教えられない、無力なピアノ教師といえるでしょう。

 

 こういう場合もし生徒が挫折したらどうなってしまうんでしょうか? 生徒の逃げ場はあるのでしょうか?かなり疑問なところです。

 

 3 挫折しても良い

 

 私の生徒はどんどん挫折しますが、平気です。挫折をするのがむしろ当たり前の事だと思っていますので、そういう生徒を受け入れる準備ができているのです。

 

 教師の思うように学んでくれる生徒など殆どいないと思っていた方がいいでしょう。そんな心配をする暇があったら、逆に、生徒の思うように教えてくれる教師になるように努力するべきでしょう。その方がよっぽど生徒のためになると思うのですが。

 

 私の生徒の中には、知的障がいの生徒が何人かおりました。そういう生徒を教える場合、レッスンはゆっくり、ゆっくりと進めます。しかし、生徒はそれでも挫折します。良い教師は「これでもか」と言わんばかりに、どんどん新しいテキストを持ってきて、その生徒にどんなやり方が合うのか、レッスンをしながら教師自身が試行錯誤し、生徒にとってベストと思われる環境をつくってやります。その中で教えるべき事を100回も200回も繰り返して言いながら励ましたり、褒めたり、教師自身一生懸命前向きに努力していけば、必ず良い結果が出せると私は信じています。

©2005新谷有功

 

​新谷有功 著